「本当に良いのかい、レオ」
「あぁ、そういう事にしておいてくれ」
珍しく夜の空は晴れ渡り、大きな三日月が彼の警察署を照らしていた。
受話器からは、半分からかうような、しかしホッとしたような声が聞こえてくる。
「子供たちは単なる家出で、報道に流した情報はただのデマか愉快犯だって?
明日の朝刊の見出しは『目立ちたがり屋の警察、デマに惑わされる』だぞ」
「あの事件を打ち切った罰だ。そのぐらい鼻をへし折っても問題ないだろう」
「はははっ、なんだか昔に戻ったようだね。大丈夫、詳しくは詮索しないさ」
受話器を片手に、レオの表情もどことなくすっきりとした印象だ。
「御嬢さんは無事なのかい?」
「あぁ。今担当医がかかりきりだよ」
「そうか、それならよかった」
「それと……俺、ロンドンに戻ります」
「おぉ!やっと言ってくれるようになったか!10年も待ったぞ」
「本当に待ったの?」
ははっと笑った後、レオは頭を掻きながら続ける。
「ちょっと頭を冷やす時間が長かったですが、やっと進めそうなんで」
「相変わらずロンドンでは奇怪な事件が多いからな、頼んだ」
「やれやれ……と、もうこんな時間か。明日の朝には帰るつもりです」
レオは受話器を持ったまま、コートを羽織りだした。
「あぁ、そうそう。今回送ってくれた新米の事ですけど、中々骨がありそうだから
少しは話を盛った報告書をあっちに提出しても良いと思いますよ」
「ん?」
「クローヴェルだよ、インターポールから来た」
しかし、相手から返って来た言葉は一瞬にして空気を変えた。
「そんな人間、送った記憶はないぞ」
レオの持っていた受話器が、床に落ちる。
そして、今更になってレオは彼の不思議な言動に気づくのだった。
何故、あれほど僅かな日光に敏感だったのか、
何故、アーサーからの写真を見た瞬間に自分より先に家を出たのか
何故、彼がここへ来たのか
「いい天気ね……あの日も同じぐらい、いい天気だったよね」
「あの日ほど霧はないよ」
真夜中、リエナはただ一人湖の前に座っていた。
空気は澄んでいたがいっそう冷たく、湖面も半分まで白く凍ってきている。
彼女の背後から返って来た声は、たった数時間前まで冗談を言いあっていた明るい声だ。
リエナは水面越しに背後にやってきた青年を見た。
そこに映っていたのは、肌は白く、髪はオレンジに近い茶髪のままだったが、
瞳の色はあの頃と同じ、リエナの海底のような深い青とは対照的な、
青空のようなスカイブルーだ。
「……ジャック」
「久しぶりだね」
「うっ」
瞬間、息をつく間もなくリエナは押し倒され首を強く絞められていた。
先ほどまでレオとヘルマンが争っていた場所と同じ。
しかし彼も、彼女もその笑みを崩すことは無い。
「ははっ…あなたが私を助けたのは、復讐する相手、を、奪われたくなかったから?」
「ここまで来たのにあっさり殺されてしまったら困るからね」
「………」
「長い10年だったよ、10年間……僕が必死にジュードを川から引き上げて死を看取ってから今まで」
「………」
「居場所は壊されるし、僕たちが働かされる場所なんて限られているし、本当……
ヘルマンだって、憐れみの同情は出来ても苦しみまではわからないだろうしね。
あの子だって……守れなかった……あいつに、わからせてやる」
「ジャック……」
「ははっ、本当……今回の事件さえ起きなければ、もっと早くに君を殺していたのに」
「っ」
彼の首をしめる手は一層強くなってゆく。
リエナは苦しそうに眉をひそめたが、抵抗せずに、静かに瞳を伏せる。
「やっと……」
「……」
「少しぐらい、何か言ったらどうなの」
「お父、さんは……もうさっき決着をつけなければいけない人と決着をつけた。
今度は、私が…私の番だから……」
「………」
彼女はゆっくりと、ジャックへと変わった彼の顔を見上げた。
その瞳は先ほどまでの、写真立てを手に取っていた時とは違う。
とてもまっすぐで強いものだった。それはまるで、あの人のようだ。
「私は約束を守れなかった。貴方が待っててと言ったのに、止めることもしなかった、
だから……私はもう止めないし、貴方との…約束を守る………わ」
「……っ」
「いつも私は……何もできない、してあげられなかった、から」
静かな風と湖から聞こえてくる水面が揺れる音が、
あの時の、川から神父を引き上げた時の記憶をよみがえらせた。
「おじさん、おじさんしっかりして!」
「……っ」
撃ち抜かれた肩から溢れ出る赤い血をジャックは必死に抑え込むが、
どうすることもできず、弱る神父を前に彼の頭の中は真っ白だった。
「どうしよう、どうすればいいんだおじさん、誰か呼んでくるよ」
「まて、ジャック………」
ジャックはあたりを見渡して立ちあがったが、ジュードはそれを止めた。
「……ジャック、」
「おじさん」
「……恨むんじゃない……誰かを、」
「そんな、おじさんっ、」
「絶望と、同化するな……お前を見つけてくれる人は、必ず、」
「………おじさん?」
「…………」
ゆっくりと空をきった腕が再び上がることは無い。
「おじさん...っおじさん!いやだっ、どうして!」
ジャックは必死に叫ぶが、その声が誰かの耳に届くことは無かった。
「ごめんなさい、ジャック……」
「……人は、恨んで生きていくんだ」
「っ……」
「人は悪徳で生かされる、美徳を信じる人間はすぐに欺かれて死ぬ運命なんだ。
誰かが助けてくれるなんて、絶対にありえない」
「………」
「ジュードだって……あんたの母さんたちやヘルマンだって」
「………」
「それで裏切った奴を許せだって?恨むなだって……?
あははっ……ぼくがそんなことできる訳……」
誰に見向きもされない、生きているだけで除け者のぼくに恨むなだなんて…
自分はこれからも独りで罪を犯してゆくのだろう、生きてゆくのだろう、
自分を蔑む人をこの手にかけて…居場所など、もうとっくになくしたのだから
「ごめんね……」
なら、
僕は今、一体だれの首を絞めているのだろう
「………」
「……、ジャッ、ク?」
「……っ」
動きを止めたクローヴェルは俯いた。
「ヘルマンがこんな事件を起こさなければ……」
自分が今していることがどれほど、
自身の怒りがどれほど、
報われないものだなんて
「僕は……僕は、リエナを……殺してたっ」
たった一つ在ったはずの居場所を、僕の手で
頑なに締め上げていた手は緩み、彼は彼女から離れた。
リエナは急に入りこんだ空気に思わず咳き込む。
「ゲホッ…ハァ…どうし、ジャック、どうして……」
「僕を見ないで、早くどこかへ行くんだ!行ってくれ!」
身体を起こしたリエナを制すように彼は叫んだ。
表情を悟られないよう片手で、顔を覆っている。
「御願いだ、見ないで……死んだままの方が良かったんだ、僕なんて。
みんなが生きているべきだった、みんなが幸せになるべきだったんだ……」
「そんな事ないわジャック、そんな事ない」
彼女の父親がそうしてくれたように、
リエナは自分から離れた彼に近づき、クローヴェルの両頬を両手で包み込んだ。
「貴方はたった一人しかいないジャックよ。やっと見つけた、私の大好きな人」
「リエナ……」
彼の薄水色の瞳からは、とめどめもなく雫が零れ落ちていた。
リエナはゆっくりと彼を抱きしめた。
「独りにさせてごめんなさい、いなくなってごめんね……」
「優しくしないで……僕は君を殺そうとした」
「あんなずぶ濡れになって私を守ってくれる人が私を本当に殺せると思う?」
「……」
「貴方は誰よりも優しいわジャック……優しいの」
「でも……歩き続けるのには、少し疲れたよ……リエナ……」
「………そうね」
「誰を許すこともできない、誰も憎むこともできない……僕はどうすればいいの?」
ふと、リエナ凍りかける湖を見、そして微笑んでもう一度抱きしめた。
「今まで頑張った分、休みましょ……大丈夫、私も一緒にいてあげる」
「…もう、誰にも酷い事、されないかな」
良く見れば、彼の長袖から見えた白い肌には無数の傷跡があった。
アルビノは、その珍しい身体から様々な組織に狙われていることは、
リエナもよく知っていた。
「大丈夫よ。きっといい夢が見られるわ。私が……守ってあげるから」
リエナはそう言って彼の額にキスを落とし、自身の額を合わせた。
「誰にも邪魔されないところへ一緒に行こう、ジャック」
「………」
濃い霧の中、ロズベルトは歩いていた。
ここがどこであるのかも、何時であるのかもわからない。
「……ロズ、」
「リエナ?」
ふと振り返れば、彼女の声が聞こえたのでロズは慌てて向かう。
「リエナ、一体なぜ…ここは」
「貴方は、私を愛してくれた」
しかし、リエナはロズベルトを見上げ微笑んだだけだ。
「今でも愛してるよ」
「でもね、ロズ。私は貴方の想いには応えられないわ……」
「リエナ…」
「私は、私が愛さなくちゃいけない人のもとへいくの…だから、」
「ありがとう」
そう言って、彼女の姿は忽然と霧の中へ消えたのだった。
「リエナ!」
そう叫んでロズベルトは目を覚ました。
窓から朝の光がさしこんでくる。
「……私は一体」
昨夜の記憶を必死で呼び覚ますロズベルト、
最後に覚えているのは彼女がハーブティーを入れてくれた場面だ。
「……まさかっ」
彼は起き上がり、すぐに医療用具が入っている革鞄を漁った。
そして瓶の中で一つ、麻酔の小瓶が空である事に気づいたのだった。
「リエナ……」
ジリリリリン
時を待っていたかのように、家の電話が鳴り響いた。
ロズベルトは思わず息を呑んだ。
「………」
新鮮な空気を吸い込み、吐き出す。
レオは湖の真ん中に立っていた。カツンと軽く湖を蹴ってみたが、
その堅い湖の氷が割れることは無い。
「レオ……っ!」
後ろから、ロズベルトが慌てた様子で駆けつけてきた。
その表情はいつもの澄ました彼には似合わない困惑と、焦燥が見て取れる。
「ハァ……ハァ…どういう事だ……」
「……彼女は、彼女であの事件に決着をつけたのだろう」
そう言って踵を返し、彼の肩に手を置いた。
「そういう事だ」
レオは歩き出した。彼がロズベルトを振り返ることは無い。
ただ一人残ったロズベルトは力なく両膝をついた。
「そんな………っ」
歩きながら、レオはふと、ポケットから銀の懐中時計を取り出した。
それは湖の中央で見つけた、胸ポケットにある自身の時計とは対の時計だった。
「置き土産か……」
リエナはそれを川の中に落としたと言っていた。
おのずとその土産が誰から渡されたものかははっきりしていた。
「ん?」
時計のふたを開けると、ひらりと白い紙が床に落ちた。
「………」
レオはそれを拾い上げて、紙に書かれた文字を読んだ。
「………」
そして、微笑んだのだった。
「ロズベルト、もっと悪い知らせだ」