コンコン……
季節は春を迎え、暖かい空気が開かれた窓から入ってくる。
窓には、相変わらず工場の煙で霞んだロンドンの街と、時計塔が建っていた。
何も変わらない、昔から何も変わっちゃいない。
男性は机に眼鏡を置き、迷惑そうにドアに向かって言う。
「すまないがもう診察の時間は終わったよ」
「あ、いえ。自分はインターポールの者です。この間の事件の件で来ました」
「あぁ…入って」
扉から入ってきたのは、細身で若い警察官だった。
艶のある黒髪に羽織っている黒いジャケットは新品そうで、つまりこれは新米警官を意味する。
「なんだ、偽物の警官じゃないのか」
「はい?」
「いいや、こっちの話だよ」
クスっと笑って男は医療用具をカバンにしまいこんだ。
「君こそが、本当に隣の国から命令で来た新米警官なんだね?」
「はい。ですが、上からは例のデマ事件が新聞に掲載された翌日に捜査せよという
命令が下りましたので…まぁ結局デマと分って捜査そのものも打ち切りになりましたが」
「それは残念。わざわざ君もここまで来て疲れただろうね。ご苦労でしたとあちらの部署にも伝えておいてくれ」
しかし新米の彼は相変わらず、少しどもった様子で部屋を後にしようとはしなかった。
「他になにか?」
「いえ、あの……僕、例のあの事件にはとても興味があって。 今まで個人でも調べていたんです」
「熱心なのはいい事だよ。君、名前は?」
「ジョンと言います。ジョン・ワトスンです」
「そうか、ではワトスン君。もし君が犯人を捕まえたら、イギリスやフランスだけでなく、
それこそ世界中が君を称賛するよ。頑張りたまえ」
そういって、ロズベルトはカバンを閉じ、コートに手をかけようとした。
「はい!なのでここへ来ました」
「………」
コートに手を伸ばした手が止まった。ロズベルトは振り返り面白そうに笑った。
「ほう?」
ジョンは、興奮した状態で話を続けた。
「被害者を見る限り、犯人はメスで相手の首を斬っていることから。そして臓器を取り出していることから
解剖学に精通していて職業が医者であることは誰でも知っています」
「どこの新聞を読んでもわかるね」
「はい、なので周りの警察も犯人を医者と断定し、捜査のターゲットも全国にいる医者にして探し出しました。
でも、そこが問題なんです。確かに犯人は医学に精通しておりますが、医者になる手前の人間を
誰も調べていなかったんです。医学校の生徒には誰も触れていませんでした」
「ほう、良い線だね。続けて」
「当時医学校で使われる解剖用の死体は、御存じのとおり『バークとヘアの事件』によって格段に供給は増えましたが、
それでもまだ足りませんでした」
「おや、あの事件を知っているのか」
「ジャック事件が無ければ、あの事件がロンドン史上最悪の殺人事件ですから」
【バークとヘア殺人事件】というのは、切り裂きジャック事件より50年ほど前に起こった連続殺人事件の事だ。
彼らは17名もの人を殺し、その死体を金銭の為に医学校に解剖用として売りつけた。
ほとんどが娼婦や障害を負った人間を殺しの標的にしていたが、一人だけ違う被害者がいた。
「……貴方の祖母は、最後の犠牲者でしたね」
「…………」
ロズベルトは静かに、真昼間のロンドンの風景を眺めた。
「きっと犯人は正義の心を持っていたのだと思います、あまりにも強すぎる信念です。
世の中では、必死に働いて生きている人間が殺されている、しかし一方で、
裏通りでは快楽におぼれて有り余った財力で奢る人間がいる。
犯人はこう思ったでしょう、彼らが、そして快楽を与えている女性たちが死ぬべきだと、
価値のない人間が殺されるべきで、せめて医学で役に立つべきだと犯人は信じていた」
「………」
「貴方が事件以前に大学で書かれていた論文には、まさに同じ内容の事が綴られていました」
「………」
「でも価値がない人間なんていないことを、貴方は知ったんです」
「おかあさん……っ、おかあさんが、どうして」
「………」
何も知らぬ父親が、友人の娘を預けてきた時、少女はただ泣き続けていた。
「おかあさ、なにもしてない、なにもしてないよ……いつも言ってたもん
お母さんやお父さんは、みんなにきらわれているけど、でもふたりとも、
この国をかげで支えてるって…それでもこの国が好きなんだって…」
「……」
「ねぇどうしておかあさんがしんじゃうの……やだ……みんな、わたしのせいで」
「………リエナ」
彼の手は彼女の頬に触れる事は出来なかった。触れられなかった。
「……あの刑事の妻が殺された後、事件はピタリとやみました」
「………」
「ロズベルトさん、貴方はあの事件の日は学校の寮にいたと言ってましたよね。
それも遠く離れたエディンバラの医学校の寮にです。なのに何故、あの日の
あの時刻にロンドンが濃い霧に包まれていたことを、知っているんですか」
「………はは、あははっ」
一瞬の間の後、ロズベルトはこらえきれずに笑い出した。
「いいねぇ新米警官君。君は実にいい線だよ、バカな警察たちに言ってやったらどうだい」
「ロズベルトさん……」
ロズベルトは余裕そうな笑みでテーブルに置かれていた花瓶に飾られている赤いバラに触れた。
「犯人の心情にまで同情するだなんてまったく、素晴らしいね」
「……でも、捜査は打ち切りになりましたし。貴方が捕まることはありません」
「正義の為にやったことを不正義のお金で隠されるなんて、その犯人もやるせないだろうねぇ」
「………」
「でも少しだけ推察を間違えているよワトスン君」
「え?」
足を組みながら、ロズはバラを一本手に取り香りをかぐ。
「確かに犯人は最初こそ正義の為に人を殺していたが……いつのころだろうね、
目的がかわったんだ。赤色を見ると、純粋に美しく思えてしまったんだよ」
「………」
ジョンはふと我に返った。謎が解けた喜びでここへきてしまったが、
僕は何故ひとりでここに来たのだろうか。
推察通りなら相手は、あの残忍な連続殺人なのに
「それに、殺人を止めた訳じゃないよ。ストッパーが近くにいたから止むを得ず
出来なかっただけだ。でも今、彼女は誰かとどこか遠くへ逃げている。私からね」
「か、彼女は死んだはずじゃ」
「誰が死亡証明書を作ったと思っているんだい」
「っ!?」
「あの日、私は宣戦布告を受け取ったんだ。だから次は私が決着をつける時だ」
パキッと、茎を折った彼を見たジョンは後ずさりした。
途端に窓から強い風が入り、彼は一瞬瞳を閉じる。
再び開けば、目の前に彼の姿は無かった。
「そういう事だから、」
「っ……」
ロズベルトはすでにジョンの背後に立っていた。
ジョンの喉元には、銀色に光るメスがあてられている。
「良い子にして、仕事に励みたまえワトスン君」
「……は、い」
「うん、問題はなさそうだ。では、今日の診察は終わりだね」
数秒、いや数分は経っただろうか。
彼の足音が消えるまで、ジョンは振り返る事も出来ず、ただただ立ち尽くしているだけだった
「ジャック……ジャック!」
「ん?もう着いたの?」
ガタンゴトンと汽車が揺れる中、リエナはいても立ってもいられない様子で彼を起こしていた。
「いや、まだだけど。でももうすぐ着くって思うとワクワクして」
「隣の国だよ?リエナもよく行くだろう?」
彼はいかにも眠そうな表情をしてリエナをあしらった。
「そういう意味じゃなくて、私たちがやっと進めることって意味で言ってるの!」
「……」
「お互い被害者で、加害者だけど……でも、これからは自由に一緒に歩いて行けるんだって思ったら」
「おかげでジャックもよみがえっておいかけてくるけど」
「あら、貴方の事?」
不敵に笑う彼女を見て、彼も笑った。
「確かにジャックは戻って来たね。でも逃げ切れるかな…」
「大丈夫よ。まずはフランスでお金を貯めた後、東へ東へ逃げれば……
インターポールに友達もいるし。何かあったら助けてくれるはず…だし、たぶん」
「リエナ……考えがあるってやっぱり嘘だったんだね」
「そ、そんなことないよ。あーほら、この世界にはまだまだジャックみたいに
恵まれない子供たちがいるはずだから、それをもっとたくさんの人に伝えたいの。
自分の足で、ね。貴方は貴方でもうとことん好きなことしていいんだから。でしょ?」
「………」
「なにその疑いの目。可愛いだけだからやめなさい」
「……はぁ」
と、話題を逸らすかのようにリエナは続けた。
「でも、アーサーが言ってた子供。あれはやっぱり貴方の昔の姿でしょ?」
「あの殺人鬼が言うように、幻覚や作り話の線が一番だと思うけど…
ほら、話している時ヘルマンを気遣うように話していたから、彼を守る為の嘘かも知れないし」
「確かに…」
「まぁでも、もしかしたら本当に僕の想いが幽霊となって出てきたのかも」
「止めてよ、あの時本当怖かったんだから」
「僕の事で震えている3人を見れたから僕は面白かったよ。あっちのジャックはジャックで、
自分を名乗る犯人が現れたんだからそれも笑えた」
「もうっ」
「冗談冗談」
「あ…」
「ん?」
ふとまた思い出したかのようにリエナがジャックに話す。
「どうして私やお父さんがあの町にいるってわかったの?
居場所を知っていたのは、ロズとお父さんの上司だけだったはずなのに…」
「あぁ、それ…」
と、ジャックはふと帽子を取りだし、キャスケットの中から一枚の小さな紙切れを出した。
「ど、どんなところから…ってこれ。1年前の新聞記事?」
「そう、」
「1年前か、懐かしいな……私がやっと新聞記者になれた時よ」
「知ってるよ」
「え?」
リエナはジャックがトンと指さした文章を見て驚いた。
それは紙切れの中でも端に書かれていた文だった。
誰か一人にでも、子供の現状を知ってもらう為に、
誰か一人にでも優しい心を持ってくれる人の為に、
私は、このノースゲートで子供たちの写真を撮り続けます。
「こんな経済発展してる中、こんな文章書く人なんて一人しかいないよ」
「ジャック…まさかこれを見て?」
「靴磨きの仕事をしてた時に、客の人が新聞をくれてね。まぁゴミ箱扱いなんだろうけど。
遅れてごめんリエナ、でもノースゲートなんて田舎の町。行くのにお金がかかり過ぎるから今度はもう少し良い所に住もう?」
「ジャック……」
彼女は心の中で、レオとした会話を思い出した。
―どんな小さなスペースでもいい、誰か一人でも、―
「おっと、泣くのはまだ早いよリエナ。ちょっと待って」
「え?」
ジャックは汽車の窓を開ける。
「わぁ……」
窓から見えたのは、春の風で舞う色とりどりの花弁と、
太陽の光で美しく照らされたエッフェル塔の素晴らしい景色だった。
「一緒に歩き出そう、リエナ」
「……うんっ」
リエナはそこで初めて涙を流すのだった。
「っくしゅん!」
「レオ…また悪い噂かい?」
『ロンドンの警察の実態』と書かれた週刊誌を読みながら、
彼の親友リチャードは馬車の助手席にいた。
「酷い事件に巻き込まれるのはもう散々だよ」
「そういって、刑事を辞めた俺にこうしてつきあっているのはどうしてなんだい?」
彼は、ロンドンに戻ったが刑事の職を辞めたのだった。
だが、今でも上司から奇怪な事件を解決してほしいという依頼はやまない。
私立探偵として再び歩き出した彼に、ロンドンの警察も少しは
甘くしてくれているみたいだ。
「勿論、スリルの為さ。君といると本当に飽きないからね」
「君のその悪い癖は息子にも継がれたらしいね」
「そうだね……」
リチャードは少しの間目を伏せたが。すぐに気を取り戻した。
「でももう私たちは探偵だ。つまり、独自に事件を解決することができる。もう彼を見過ごす事は出来ないさ」
「そう言ってくれると助かるよ。あぁそうさ、もう逃げないよ私は」
レオは青空を見上げた。太陽はまっすぐに彼らを照らしていた。
「それじゃあ、奇怪な事件と共に、本当の決着をつける旅へと行きますか」
「次の場所はどこだい?」
「花の都、パリへと出発だ、王室から直々の依頼が来たんだ」
「それは楽しみだ」
「私もだ」
レオはそう笑い、馬車を走らせた。
チャリンと、彼の胸ポケットには二つの懐中時計が眠っている。
その一つの時計の蓋の中に入れられている白い紙には、
綺麗な文字でこう記されていた。
Dear My Dad
It's Time to Thaw
完
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