07:錆びた鎖

「すぅ………はー」
「あ、レオ刑事。煙草吸うんですか?」
「いや、今までは娘がいたもんで吸っていなかったけどね。流石に目を覚まさないと。新米は吸っちゃだめだぞ?」
「吸いませんよ身体に悪いですし!」

昨日に比べて天気は少し悪いように見えた。
真っ白い雲が太陽を覆い隠して銀世界を作っている。
でもまだ雪は降っていなかった。
レオとクローヴェルはとある家の前に立っていた。

「ロズベルトさんは?」
「理恵奈の御守」
「あぁ……」

と、雲の隙間から微かに太陽の光が零れたので、クローヴェルは帽子を深くかぶりなおした。

「眩し…」
「えぇ、あの太陽が?」
「ずっと部署では雑務や事務仕事ばかりでしたからね……」
「なるほど…じゃあこれが栄えある最初の仕事だな。行くぞ」
「はいっ!」

二人は、ドアをノックした。



「もう、信じられない!!」
「いつもその台詞を聞いている気がするよ私は」

声を発した張本人は、長い黒髪を揺らしながら再びふんと鼻を鳴らしている。

「お留守番してあげてるのにパンケーキも無し、スープも無しパンも無しって…」
「それだけ急を要したんだろうね」
「え、お父さんもう犯人がわかったの?」
「さぁ…目星はついたんじゃないかな」

難しい本を読みながら、ロズベルトは小さく微笑んだ。

「ロズも?」
「そういわれるととても難しい話なのだけれどね、まったく……10年前の事件を再び繰り返そうとしている犯人の顔を見たいよ私は」
「もうまた私は除け者!?もういい私不機嫌になった。今日一日テンション低いから」
「…わかったわかった。じゃあ少し待っていなさい。パン屋に行ってくるから」
「本当!?私機嫌よくなった。じゃあクロワッサンとバケットとスコーンと」
「君といるとお金がいくらあっても足りないよ」
「足りなくなることなんてあるの?」

ふわりと笑うリエナを見て、ロズベルトは銀縁ごしの目を細めて彼女の髪をすくった。

「君がいれば足りなくなるものなんてないよ、これが本心だ」
「じゃあ宜しく御願いしますね!ロズ巡査!」
「はぁ…彼の真似をするのは止めてくれ。うっかりメスを握ってしまうよ」
「ちょ、止めてよ!それに貴方精神科医でしょ!?」
「言葉で人の心は切れるものだよ」
「ロズ!」
「冗談冗談……じゃあ、絶対に外に出ない事。わかったね?」
「はーい」

リエナはそう軽く流して、先ほどロズベルトが座ったソファに腰掛けて彼の読んでいた本を逆さまにして顔の上に載せた。
どうやら空腹をごまかすために一眠りするらしい。

ロズベルトは困ったように笑いながらも、静かに家を離れた。



「ごめんなさい、先にお父さんが出て行っちゃってて……」
「いやいや、謝らないでくださいアーサー君」

二人は小さな子供があたふたと出した紅茶とクッキーを丁寧に受け取った。
レオたちは、昨日訪れたアーサーの家に再び訪れていたのだった。

「今日のパンを買いに行っただけだから、すぐかえってくると思うんだ」
「わかりました。暫く待ちましょう」
「でも、どうしておじさんたちがまた来たの?お父さんに何かあったの?」
「それは……」

そう言ってクローヴェルは隣に腰掛けるレオの返事を待った。 というより、
自身も何故ここに来たかわかっていなかったので、何も答えられなかったのだ。
レオは静かに微笑み、だが瞳はまっすぐにアーサーを映し出した。

「いや、お父さんに聞きたいことがあってね」
「聞きたいこと?」
「アーサーは、お母さんの事は好きかい?」
「うん」
「お父さんも、もちろんお母さんの事は好きだよね」
「うんっ!」
「…レオ刑事?」
「じゃあなんで、お母さんと一緒の写真がどこにもないのかな」
「あ…」

クローヴェルはあたりを見渡した。確かに昨日も部屋を見たが、 家庭らしいものはひとつも、家族写真が一枚も飾られていなかったのだ。
そうだ。気掛かりだったのはこの事だったのか……まるでリエナの家と同じだ。
同じ風景を見ていたのに、クローヴェルとレオで推察する深さが違う事に、彼は驚嘆した。

「悲しい事は忘れなさいって、お父さんが言って…全部捨てたんだ」

アーサーはすこし浮かない表情になって顔を下に向けた。

「僕が生まれてすぐにお母さんは死んじゃったから…」
「それは、お父さんも大変だったでしょうね…確か学校の先生だったんだよね?」
「そうなの。だから僕は小さいころ近くの教会で預けられてたんだって」

嫌な予感がした。
するとアーサーは何かを思い出したかのように顔をあげた。

「そうだ!たしかぼくの昔の日記に写真があったはずだよ!取ってくるね!」

そう言って少年はそそくさと階段を駆け上った。

「……レオ刑事」
「………」

少しの沈黙の後、クローヴェルはレオに訊いた。

「どこで、疑ったのですか。ヘルマンさんを」



「……ん、」

リビングの時計の針が鳴り響いていた。
本当に一眠りしてしまったのかと、リエナは慌てて身体を起こした。
バサッと、ロズの黒いコートが床に落ちたので思わず笑みをこぼしてしまう。

彼がいなければ、今の私の精神状態はもっと酷かっただろう。
あの日、むちゃくちゃだった私をずっと見てくれた。
その意味ではとてもありがたいと思っているし、婚約自体を破棄するつもりもない。

「………」

丁寧に彼のコートをたたんで、暖炉の上にあった写真立てを取り出す。

「……」

でもこの写真を彼との写真に替えることは、未だに出来ないでいる。
もしかしたら……そんな思いを捨てきれずにいるのだ。

「…ジャック」

「会えた所でどうするつもりなのさ」
「!?」

聞いた覚えのある、いや、聞きたかった声を聞き振り返れば、今まで寝ていたソファの天辺で
足をブラブラと宙に浮かして笑っていたのは、彼――ジャックだった。
彼は悪戯っぽく笑い声をあげながらリエナを見ていた。

「ジャックッ」

リエナは急いで彼の元へ駆けつけたが、彼の姿はまるで霧のように一瞬で消えた。

「許して欲しいって思ってるの?謝りたいと思っているの?」
「えっ」

そして、次には先ほどいた暖炉の近くへ立っていた。
ジャックは写真立てを持ち上げて視線を写真に向けた。

「でも君は今まで忘れていたんだろう?いや、忘れようとしていた」
「そんな事ないわっ。私が貴方の事を忘れるなんて絶対に!」
「そうかな、」
「貴方たちのような子供が皆に知ってもらえるよう記者になったのよ私、」
「そう、」

宥めるように話したリエナだったが、ジャックが写真立てを置いた瞬間、彼の笑みは消えていた。

「じゃあ、今あの場所にいた皆がどうなったのか知ってるの?」
「え?」

そしていつの間にか、彼は彼女の目の前に立っている。

「知らないだろう?何故なら君は逃げたからね」
「みんな…どうなったの」
「ロンドンからも過去からも罪からも逃げた君が、僕に何をしたいって?」
「ジャック…」
「…忘れた方が良いんだろう?レオの様にさ」
「………」

ジャックからの最後の言葉には、今までの勢いはなかった。
リエナが見れば、彼の顔は俯いていて表情は伺えない。

「そうね、私……逃げていたわジャック。都合がいいこの場所にずっと逃げてた」
「………」
「……許してだなんて無理だと思ってる」
「………」

リエナはそっと両手を今は小さな彼の顔へと近づけた。

「でも、お父さんは今、ここから出て行って歩き出した」
「……」
「それなら、私も……ここから出ていかなくちゃ」

しかし、彼女の手がもう少しでジャックの頬に触れるその寸前、彼は彼女を見上げて微笑んだ。
その顔はとても、悲しそうなものだ。

「なら、証明してみせて」

コンコン

「!?」

突然ノックの音に驚き、リエナは玄関の方へ顔を向ける。
流石に慎重に窓からその主を見たが、何のことはない、あの人だ。

「ジャック?」

顔を戻せば、先ほどまでいた場所に彼の姿は無かった。

幻…それとも、夢?

「あ、でも先に行かなきゃ」

リエナは急いで玄関まで行き、ドアを開いた。

「遅れてすみません!えっと…どうかしたのですか?」



「どこでと言われたら、最初からかな」
「えっ」

あははと笑うレオに、クローヴェルはますます畏敬の念を抱いた。
そうだ、何だかんだ言って彼は無理やりとはいえあの伝説の事件を担当した刑事だ…

「家の装飾もそうだったけど、何かを隠しているように見えてね。それに、あの証言」
「証言?」

―息子には不自由な暮らしをさせたくないと思っていましたが、こんな不穏な事件が続いてしまうと…
 校長としてもこれから迫ってくるロンドンの報道陣に何て釈明すればいいのか―

「あれが?」
「私たちが彼の家を出た時に、理恵奈とすれ違ったのはその日の朝刊を運ぶ配達員だった。
 まぁここは田舎だからねー。配達が遅いんだよ。つまりまだ彼の家に新聞は届いていなかった。
 なのに、彼はロンドンの新聞がその事件で 持ちきりになると知っていた」
「新聞が記事を変える事実を知っていたのは、新聞記者のリエナさんと、
 彼女の愚痴を聞いていた僕たち、あともしかしたらレオ刑事の上司ぐらいですよね」
「そう、つまり報道陣にこの事件を流したのはヘルマンだ。つまり、彼が犯人だ」
「すごい……」
「でも最後の一つだけが未だに当てはまらない」

そこで彼は急に眉をしかめた。

「何がですか?」
「動機だ……」
「おじさん!」

タイミングよく、アーサーは一枚の写真を持ってきた。
少年は彼らにそれを見せる。

「僕が少しの間いた場所だよ。ぼくとお父さん、それとそのお兄さんと、お母さんがいるんだ、それでお父さんのお兄さんはね――」

言い終わる前に、クローヴェルはすでに家を飛び出していた。

「待ちなさいクローヴェル!」

慌ててレオも部屋を後にした。

『理恵奈!』



「これは困った……」

ただ一人、ロズベルトは閉められたドアの前で立ち尽くしていた。

「日曜は開店する時間が1時間遅いなんて……」

日は昇っているのに吐く息はどんどんと白くなって行く。
天候が悪くなる兆候だ。

「どうしたものか………」

と、懐中時計を眺めていると、パン屋の中から
よっこらせとパンを持ってくる彼女の姿が現れた。

「ついてるね」

ロズベルトはやや乱暴にガラスの扉をノックする。
おばあさんは、しばらくした後やっと気づいたようで扉を開けた。

「おやまぁ、お腹が空いた狼のようね」
「その赤ずきんが更にお腹を空かせていてね。悪いけど、もう買っていいかい?」
「どうぞどうぞ、あの子は本当に大食いなんだから」

手当たり次第にパンを袋に入れながら、ロズベルトは会話を続けた。

「そう言えば、あの湖にダムを作ろうだなんておばあさんの知恵は流石ですね」
「あぁ、あの事かい?いやぁこの町は年寄りの意見を優先してくれるからねぇ。でも、提案したのは別の人だよ」
「あぁ、リエナが言ってましたね。お客さんの意見だったのでしょう?誰なんですか?」
「ハイルナーさんよ」
「ハイルナー?」
「あぁ、皆さんは下の名前で呼んでいるのよね。ヘルマン=ハイルナーさんよ」
「……………」

ロズベルトの手の動きが止まった。

「……まさか、ジュード=ハイルナーさんの兄弟ですか」




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