06:湖底の記憶

既に夜更けを過ぎた頃、クローヴェルは蝋燭台を片手に階段を下りた。

「あれ…」

リビングに行けばレオ刑事に会えると踏んでいたが、ソファに座りながら考えがちに暖炉の炎を見つめていたのはロズベルトだった。

「えっと、レオ刑事はどちらに?」
「既に明日に備えて部屋に戻ったよ」
「そうですか……」
「話があったのだろう?かけていいよ」

長い脚を組みなおして、ロズベルトはどうぞと隣にあったソファへ彼を促した。

「ありがとうございます」

クローヴェルは言われるがままにソファに座る。ロズベルトの瞳は未だに炎より遠くを見ているようだった。

「あの……ロズベルトさん」
「10年前の事件についてだろう?」
「はい」
「君も隣の国からわざわざ仕事を受けているんだからね。ある程度は背景を知っていた方がよさそうだ」
「でも大体は予想がついているだろう?ロンドンで10年前に起った大きな事件と言えばひとつしかない」
「……切り裂き、ジャックの件についてですか」

警官だけでなく、イギリスに住んでいる者ならだれでもその事件の事は聞いたことはある。
無論、フランスでもその事件はあまりにも有名だ。
たった二か月間で5人の売春婦を殺したというある種伝説の連続殺人事件だ。
しかもその手口は残忍で喉を掻っ切られたり臓器を摘出されるなど、考えるだけでおぞましい…

「でもその事件とレオ刑事に一体なんの関係が」
「実は大アリでね…」

ロズベルトは小さく微笑んだ。

「当時事件の管轄はスコットランドヤードとロンドン市警察の二手で捜査をしていた。
 邪魔しあいと言った方が正しいかもしれないが…そのロンドン市警側で刑事として
 あの事件を捜査していたのはレオなんだよ」
「そ、そうだったんですか!?」
「しっ…」

慌てて手で口を押えるクローヴェル。まさか、あの伝説の事件を捜査していたのが、
今上で寝ているであろう人だなんて……フランスでこのことを言ったら
どれほどサインをねだられるだろうか。

「でも、レオ刑事もよくあんな事件を捜査しましたね…面倒な事は嫌いかと」

クローヴェルの脳内に、欠伸をしながらパンケーキを作っていた今朝の彼の姿が浮かんだ。

「殺され方が残忍で、標的があまり身分上宜しくない女性だったからね。
 上の人たちはあまり捜査はしたくなかったんだよ。見返りもなさそうだし。
 それに、彼はこの分野に詳しいと理由を作らされ、それで白羽の矢が立った」
「どうして?」
「彼の奥さんが、そういう人だったからさ」
「……それはつまり、その、レオ刑事の奥さんの職業がそういうものだったと?」
「………」

沈黙の肯定をしたロズベルトはそっと立ち上がり、
暖炉の上にあった写真立てを丁寧に取り上げ、クローヴェルに見せた。

「彼女の名前は、メアリー・ジェイン・ケリー。まだ25歳という若さだった」
「メアリー……っ、もしかして、あの事件の最後の」

犯人が最後に殺されたといわれる、そしてもっとも残忍な殺され方をしたとされる被害者の名前だった。

「ロンドンでは………一番の売春婦だったと伝えられていたよ。
 それに、 本当は恵まれていない女性の為に働くことで自由とお金を得させるって 提案もしていた人だったらしい。
 無論、そんな事実なんて世間には知らされていないし、わかりもしないだろう。 10年前の僕も知らなかった
 ……知っていたらと思うよ、今更だけどね」
「ロズベルトさん…」
「私の父親はレオと共に、よく色々な事件に協力していたんだ。半ば無理やりね。
 周りの人が受けたがらない仕事ばかりしていたから、つまり怪奇的な事件という事だ。中々にスリルがあったみたいだよ」
「…レオさんは、そんなに周りから煙たがれていたのですか」
「奥さんの事もあるし、アジア人だからね。中々……優しさと愚かさを区別できない人達ばかりなんだよ、都会の人間というのは。
 でも奥さんはそんな彼に『それなら貴方と私は同じ、人知れずこの町を守っている人間だ』と言ってくれたそうだ」
「優しい…人だったんですね」

写真立てを元の場所にかえしたクローヴェルは、再びソファに座りなおした。

「10年前の事件がそれを指すことはわかりましたが…それと子供の関係は?」
「賢いねー、だが賢すぎると犯人に殺されてしまうよ?」
「止めて下さいよ」
「ははは、冗談だよ……」

ロズベルトは冗談越しにそういって、用意された二つ分のカップにハーブティーを注いだ。
クローヴェルはそこで、彼が始めから自分が来ることを察していたのだと分かった。

「同時期、同じ場所でそして全く同じ手口で子供たちも行方不明になった後、殺されるという事件が発生していた。恐らく同一犯の犯行だ」
「え、そんな。でもニュースでも新聞でもそんな内容は…」
「その子供たちは全員、例の被害者の女性が産んだ子とされているからね。中々報道はしづらい」
「………」

メディアというのは利益ありきの報道をするものだ。
ただでさえ子供が被害者の事件は、読者に混乱や批判を招きかねないからより慎重さを要する。
加えてその被害者が裕福な家庭の子なら同情も集められるが、どこのだれの子か分らない不遜と称される子供なら、
話も今一つ盛り上がらないし誰しも記事に載せたがらないのが現状だ。

ふと、クローヴェルはリエナが新聞記者だった事を思い出した。
記事にならないと言われる子供関係を取り扱っている彼女はもしかして、この事件がきっかけで…?

「最初はレオも乗る気ではなかったが、奥さんの友人とその子供が4番目の犠牲者となった後は熱心に捜査するようになった。
 元々彼はとても頭がいいからね」
「お友達とその子供も犠牲になったのですか…」

温かいハーブティーを飲みながら、ロズベルトはつづけた。

「しかし、熱心になり過ぎてリエナの事をあまり見てあげられなかったと言っていたよ」
「両親共、昼夜問わず働いている職業ですからね……」
「彼女は、小さい頃から市内の教会で預けられていたんだ。優しい心を持ってくれるよう、奥さんがわざと孤児院で育てさせた」
「孤児院って言いますと、つまりお母さんが外に出てその、そういう所で働いている子供とか、それを理由に捨てられたりする子が集まる場所ですよね」
「おや、詳しいね」
「いえ、あの、実は僕も孤児院育ちなんです」

クローヴェルは困ったように笑ったが、ロズベルトは逆に驚いた様子だった。

「それは……すまない、悪気があった訳では」
「気にしないでください、それで続きは」

コホンと、咳払いをしてロズベルトは話を再開させた。

「彼女の話によると、そこで一人の少年と仲良くなったそうだ。奇しくも、名前はジャックと言ってね…
 生まれてすぐに教会の扉の前に捨てられていたらしい」
「酷い…ですね」

クローヴェルはすかさず目をそらした。

「見た目も捨てられた原因の可能性があったそうだよ。どうやらアルビノの人間らしく肌は白く、髪は銀色、瞳も淡い青色だったそうだ」
「え?それって今日アーサー君が言っていた」
「あぁ…本当に幻覚を見ていなければね」

次に質問をすれば、今度こそ間違いなく恐ろしい真実と歴史が返ってくるだろうクローヴェルは熱いお茶を一口に飲み干した。

「で、でもそのリエナさんのお友達は10年前の時のお話ですよね。ま、まさか今になって同じ状態で現れるなんてありえないですよ」
「あながち君の犯人が幽霊説も間違ってはいないかもしれないね」
「え……?」

「少年は死んだ。あの日、最後の事件が起こったその日にね」



白い石畳の教会の階段を駆け下りながら、その少年は礼拝堂まで駆け抜けた。
少年の声は大きく教会中に響き渡る。

「リーエナッ!」
「ジャック?」

マリア像の下でじっと像を見上げながら振り返った少女は驚いた様子だった。
ハァハァと息を切らしたジャックはすぐに笑顔になり彼女を見る。

「お父さんは?帰って来たのか?どこにいるんだ?」
「……ううん、」

リエナは困ったように笑いながら、その黒い長髪を横に揺らした。

「そんな、今日は久しぶりに帰ってくるって言ってたんだろ?」
「そのはずだったんだけど、さっき電話でお仕事が急に大変になったみたいで、
 それに今…ロンドンは危険だからここにいた方が良いって」
「だーっ、またそれ?警察官が娘の一人も守れないってダメじゃんか!」
「でも、今回は大きな事件らしいし……」

二人で周りを見渡せば、幼い少年少女がすすり泣いていたり、すでに大人のような顔つきで遠くを見ていたりしている。
間違いなく、レオが取り扱っているロンドンの事件はとてもまずいものだと、そして、どことなく自分たちやその親に
関係しているものだと子供でも感づいていた。

「ほらほら、泣かないで。大丈夫だから」

ジャックはすぐにすすり泣いていた小さな男の子の元へ行き、頭をなでながら微笑みかけた。
その姿をリエナは見て、ジャックの傍へよる。
同じ場所にいるけれど、私と彼らとでは決定的に何かが違うのではないか、そんな不安も彼女にはあった。
それなのに、父親の事を気にするなんて我儘にも程があるのではないか……
リエナはそう思い、父親に会った時に渡そうと思っていた手紙を静かにポケットに閉まった。

「……私は全然大丈夫だけど、他の子供たちが私はとても心配よ」
「人の心配ばかりするなって。リエナはリエナの心配をして」
「ジャック……」
「そうだ!」

と、ジャックはリエナを礼拝堂の柱の影まで連れて行った。

「僕がリエナのお父さんの様子を見に行くよ」
「え?」
「だから、僕がお父さんにリエナの手紙渡しに行くよ、ほら隠さないで出して」
「え、ちょ、どうして」

ジャックはリエナがとっさにポケットに隠した父親への手紙を奪い取った。

「そんな、ダメだよ。ジュード神父に怒られちゃうよ」
「大丈夫だって。俺はリエナとは違う。誰も俺を待ってはくれないし、心配もされないから……」

銀色の髪に隠れていた青い瞳が、少し寂しそうだった。

「わ、私は心配するもん!」
「リエナ……」
「それに、ジュードさんだって心配するはずよ!」
「あー…あのうるさいおじさんだけには心配なんてされたくないな」
「まさか私の事ではなかろうね?」
「「ヒィっ!?」」

と、二人の間にぬっと現れたのは、絵画でよく悪魔として描かれているような
顔つきをした神父だった。やや長めの灰色の髪を後ろに束ね、淡い青色の瞳は鋭くまっすぐに二人を見つめている。
いかにも威厳があり過ぎる人である。彼は、しばらく二人を交互に見ながらやがて深いため息をついた。

「何を企んでいるかは聞かないが、今のロンドンはとても危ない。周りの空気を察せばわかるだろう?
 ここなら私が君たちを守れるし、もう暫くだけはここに留まっていなさい」
「確かにおじさんならその顔で悪い人追い出せそうだしね」
「ジャック」
「いたっ。人の頭を小突く神父がいるもんか」
「約束だぞ?」
「……わかったよ」

そう言い残して、神父は何やら大人たちが集まっている部屋へと行ってしまった。
ジャックはといえば、ふてくされたように彼の背中を睨み付けた。

「……あの人本当に神父なのか?」
「でもやっぱりやめておこうよ、次の週末には帰ってくるって言ってたし大丈夫だから」
「もうそれで3か月経ってるぞリエナ」
「でも…」

と、ジャックはその白い腕ではにかみながらリエナの頭をなでたのだった。
「大丈夫、だから待ってて。ね?」
「……………」


「よいしょっと……」

その日の真夜中、ジャックは寝静まった礼拝堂を通り過ぎ、懺悔室の背後にある物置部屋へ入った。
そこにある窓から外に出られると知っていたからだ。

「……………」

彼は昼過ぎにジュードが見知らぬ大人たちと話していた内容を思い出していた。
リエナを部屋に戻した後、こっそり盗み聞きしていたのだ。
しかし耳に入ってきた内容は、この教会を取り壊すというものだった。

「既に市長からの許可は貰った。早く立ち去っていただきたい」
「そんな、ここにいる子供たちはどうなるのですか。ここは神聖な教会の院ですよ?」
「神聖?元々捨てられ、見放されていた子供たちだ。今度も見放しておけばいい」
「子供たちの親のように何とか這って生きていけるだろう?」
「それよりも私たちは未来のある子供たちを育成するための学校を建てたいのだ」
「………」

静かに座り込みながらジャックは顔を伏せた。何度となく聞かされる言葉だ。
わかっているさ……自分たちが望まれていない人間だなんて。
特に、僕は異常な人間だ。生まれつきの。

「未来なら、彼らにも平等にあります」
「っ……」

しかし、ジュードはそのまっすぐな瞳で彼らを説くのだった。

「誰にでも平等に生きる権利があります。そこに家柄や育ちは関係ないはずだ」
「貴方もご立派だ。あんな汚れた子供たちを育てていて苦しいと思ったことは無いのか?
 見返りも何もない、無駄な労力を使って……同情するよ」
「残念ながら、一度も苦に思ったことはない」
「……期限は迫っている。子供を思うなら早く彼らの居場所を新設することだな」
「もっとも、居場所があればの話だがな」

げらげらと笑う大人の声を聞いて、ジャックは拳を強く握った。
だが、小さな自分では出来る事なんて限られている。


回想を振り切って、彼は気を取り戻す。

「…だからこそせめて、目の前にいる人を悲しませる様な事はしたくないんだよ」

と、窓枠に手を伸ばしたとき、

「でも私はジャックを一人にさせたくないよ」
「!?」

その腕を掴んだのはリエナだった。月明かりが差し込む中、彼女の青い瞳とジャックの水色の瞳が交わる。

「リエナ、僕は外に出る。君のお父さんにも会って話もしたい。 レオさんぐらいの人だったら、
 この教会を何とか守ってくれるかもしれない。それに、もしかしたらもう事件は解決しているかもしれないし」
「なら明日にしようよ、昼時に行けば安全だし…」
「少しでも早くリエナを笑顔にしたいんだよ、ここにいる人たちと同じ想いにさせたくない」
「………ジャック」
「だから」
「じゃあ私も行く」

ジャックの腕をつかんでいた手は、ジャックの手を握っていた。

「私もお父さんを見つけに行く」

彼は驚いたように瞳を開かせたが、やがて優しく微笑んだ



「わぁ………」

小さな二人は、数時間人気のない道を歩いた末、ロンドン橋を渡っていた。
11月になったロンドンの空気はとても冷たく、吐く息は白くなっている。
だが二人にとっては久しぶりの新鮮な空気だった。

「見てリエナ、本当に大きな塔だな」
「うんっ。いつも馬車に乗ってでしか見ていなかったからすごい素敵……」
「確か、お父さんの働いている場所ってこの通りの奥だよね?」
「そのはずだよっ。私の家も近くにあるはず………」

そう言ってリエナは首から下げていた銀の懐中時計を取り出した。

「それは?」
「お母さんの時計なんだ!お父さんも同じものを持っててね、でもお母さんはすぐにお父さんに会えるからって私にくれたの」
「いいな…」
「私が大きくなったら、同じものをジャックに作って上げる」
「………」
「どうしたの?寒いの?耳、赤いよ?」
「ほら、早く行くよ!」
「あ、ちょっと」

二人は手を離さずに橋を渡り、迷路のような通りへと入って行った。



「えっと……確か、ここのはずなんだけど……」
「なぁ、リエナ。本当にここであってるのか?……なんか、ずっとレンガ造りの道だぞ」

一体どこから間違えたのか、二人は裏通りの道に迷い込んでしまったようだった。
人通りは今までと比べてとても多くなった。しかし、通るその人たちが問題だ。
お金を欲しがる老人、階段に座りながら物乞いをする人、やけに甲高い声で笑い出す女性。
変な煙草を吸う男性……
ジャックたちが着ていた服が貧相だったことが幸いして、周りの大人は二人をいつもの子供たちだと
気にも留めない様子だったが二人にとっては居心地が悪い。

「ちょっとさっきの時計塔まで戻ろう」
「う、うん…」

そう踵を返した時だった。リエナの耳に微かに誰かの悲鳴が聞こえてきた。

「え……?」

リエナは立ち止まり、周りを見渡す。
そしてもう一度、今度は確実に誰かの声が聞こえてきた。
それは周りの人にも聞こえたようで、大人たちは一斉に走りだしたり、
違法なものをしまいこんだりしていた。彼らにとっては日常茶飯事なのだ。

「リエナ、戻ろうっ」
「待って!」

腕をつかんで走ろうとするジャックをリエナは強く跳ね返した。

「あの声、お母さんのだわ」
「え?」
「あの声っ、きっとお母さんの悲鳴よ!行かなくちゃ!」
「リエナ!待ってっ」

大人たちとは逆の方向へ走り出すリエナをジャックは追いかけるが、大人数の波に飲み込まれて、前へ進むことが出来なかった。

「リエナ!」

手を伸ばすが、一瞬にして彼女は暗い通りへと消えて行った。

 

「お母さん……?」

悲鳴はいつの間にか止まっていた。
リエナはギュッと懐中時計を握りしめながら、レンガ造りの道をまっすぐに歩く。
先ほどまでの、ある意味賑やかな音も、灯りもそこにはない。

「………」
リエナは壁を伝って曲がり角をまがった。

「…おかあさ……」

ピチャ…

「え……?」

ふと、何かを踏んだ音がしてリエナは立ち止まる。
最初、彼女はそれが水だと思った。イギリスではすぐに雨が降る。
今日もきっと、私たちが来る前にひと雨降ったのだろう……そう思い、下を見た。

キィ…

か細いオレンジ色のガス灯が、ゆらゆらと揺れて彼女の足元を照らしだした。

赤い

赤い、水だ

「…え……?」

その液体はリエナの足元から先へ徐々に多く落ちているようだった。
思えば、角を曲がった途端強い鉄の匂いがしていた。

「おや、」

彼女に気が付いたのか、目の前の暗闇から微かな物音と
低い抑揚のない声が聞こえてきた。

「君は誰かな、いらない子かな、誰の子だろう、綺麗な血かな」

歌うように笑いながら、しかし革靴とコートの音は確実にこちらへきている。
ナイフを壁にあてて引きずっているのか耳障りな金属音が聞こえてくる。
リエナは恐怖のあまりに、腰を抜かして震えあがった。

「あ……あ……」

暗闇の中から、銀色の刃物が見えた気がした。

ガシャンッ!

「!?」

しかし彼が姿を現す寸前、先ほど近くにあったガス灯を誰かが影の男に投げつけた。
ガラスは飛び散り、影はよろけたように見えた。

「リエナ!」
「…ジャ、ジャック」
「逃げるぞ!」

軽々と壁を飛び越えて駆けてきたのはジャックだ。
彼は急いで彼女の腕をつかみ、立ちあがらせ走り去った。

「………っ、子供が二人、」

影はすぐに体制を整え、口角をあげ彼らの後を追った。




「ハァッ……ハァッ、誰か!誰か助けて下さい!!」
「ハァッ……ハァッ」

二人は全速力で先ほどの通りを駆け抜ける。
まるでゴーストタウンのように人は誰一人としていない。いつの間にか薄かった霧が濃くなりはじめ、
もともと土地勘のないジャックたちは焦りを募らせるばかりだった。

「誰か!レオさん!レオ刑事 !」
「お父さんっ!」

「そこかな?」
「「!!??」」

濃い霧がつつむ中、確かにその影は追ってくる。叫ぶだけ居場所がわかってしまう。
二人は再び走り出した。どこかで時計塔の鐘が鳴った。

「リエナ、あの音がする所まで走ろう!」
「うんっ!」

暫くして、二人は先ほどの橋まで辿りついたのだった。
と言っても濃い霧の為、本当に橋についたかは分からなかった。
ただ、下方に川の流れは聞こえてくる。

「………追ってこないね」
「流石に逃げたんじゃないか?ここは一応大きな通りだから」

二人は息を整えながら、やっと力なく笑い出したのだった。

「やっぱり、世間は俺たちに冷たいな…」
「え?」

疲れたように、ジャックは続ける。

「あの影も言ってた。いらない子だって……はは、知ってるってそんな事」
「そ、そんな事ないよ!」
「本当にそう思う?」

彼の青い瞳が、リエナをまっすぐに見た。

「当たり前でしょ!ジャックはたった一人しかいないジャックだもん!」
「………」
「そ、それにお父さんだって同じ事思ってくれるもん。だからほら、一緒に戻ろう?」
「……うん、そうだね。ごめん、変な事言って」
「やっと見つけたぞ……」
「「!!??」」

しかし幸せは束の間、とても近くで声が帰って来た。
ジャックは慌ててリエナを背中に隠した。
足は先ほどよりやや引きずっているような音を出してこちらへ向かってくる。
やがて霧の中から現れたのは、他の誰でもない二人が良く知る人物だった。

「ジュード神父!?」
「やれやれ…絶対ここへ来るとは思っていたんだよ、まったく」

困った顔をして笑っていたのは、ジュードだった。
先ほどリエナが聞いた、とても明朗で若そうな声とは対照的な声に彼女は安心感を覚えたが、
同時に、肩と足に深い刺し傷があったことに気づき、二人は彼の元へ駆けつけた。

「おじさんっ、どうしたんだよそれ!」
「これだから都会の若者は困るんだ……通りすがりに刃物を向けてくるのだからね」
「おじさんっ……僕のせいだ、こんな、どうしよう…」

ジャックの瞳には涙が今にも零れ落ちそうだった。
誰がこんな事を、さっきの犯人か?でももしかしたら昼に来たあの大人かもしれない。
神父さえいなくなれば、僕たちの居場所なんてすぐになくなってしまう。
でもどの道、間違いなく自分のせいで彼は傷ついた。
一体どうすれば……ジャックの動揺はリエナにも十分に、苦しくなるほどわかっていた。

「レオおじさんがいてくれれば……」
「そうよ!た、助けを呼ばなきゃ、誰か!誰か!」

リエナは大声で、周りに向かって叫び始めた。
普通の人でもいい、誰か神父さんを助けてっ、

「リエナ、止めなさいっ、叫んでは」

ジュードはそれを制すように、先で助けを呼ぶリエナの肩を掴もうとした。

「誰か助けて!」

パァンッ

一瞬の出来事だった。
リエナの隣で鋭い風が通り過ぎた気がした。

「……おじ さん?」

同時に、ジャックの目の前でジュードは橋の手すりによりかかるように倒れた。

「おじさん……ジュード!………っ誰だよ!」

ジャックは音がした方向へ顔を向けた。

「ハァ……ハァッ」

やがて霧は晴れ、二人から少し離れた橋の入口に二人の人影が現れた。
一人は金髪で眼鏡をかけた、ロズベルトの父親。
そして、ゆっくりと銃を下したのは肩で息をしているレオ本人だった。

「……お父さん?」
「……………」

長い間走っていたのか、息を切らしながら未だに銃口を下ろさないレオは、
今までリエナが見た事も無い鋭い目つきでジュードを見た。

「……お前だったのか」
「ちが、おとうさん!違うのっ!」
「………して」
「ジャック……?」

リエナは隣で震えていたジャックを見たが、ジャックの瞳もまた、
彼女が今まで見た事のない憎しみを映し出していた。

「どうしておじさんを撃ったんだよ!?なんで、僕たちを助けようとしてくれたのに!?
 どうして!?……あんたを探すために、それなのに、こんな……っ」

途方もない憎悪や悲しみをまき散らすジャック。しかしレオの瞳は依然冷たいままだ。

「リエナ、ジャック、彼から離れなさい。今すぐに!」
「お父さん!」

と、衰弱していたジュードは、ふと子供たちの背後で、つまりレオたちとは反対側の方向に黒い影が立っていたことに気づいた。
その影はゆがんだ笑いで、傷ついた片腕を抑えながら、もう片方の手には血だらけの銀色のナイフをかざしていた。
彼の視線の先には、ジャックがいた。外套をあてられた復讐に来たのだ。

「ジャック!」
「っ!?」

瞬間だ。何かが刺さる音がした。最後の力でジュードは彼をかばい、
彼の胸には銀色のメスが刺さった。

「……………」

レオの動きも一瞬にして止まった。

「…っ。待て!!」

リチャードはいち早く犯人を捕まえるべく走り去っていく。
まるでスローモーションのように、ジュードはよろけながら橋の下へと落ちて行った。

「ジュード!」

そして悲痛に叫びながらジャックも橋へと身を投げ出した。

「ジャック!!」

寸前、リエナがジャックの左腕を両手でつかんだ。
しかし、小さな身体ではジャックを引き上げるどころか、
繋ぎとめるのも時間の問題だった。

「っ、お父さん!お父さん早く!私じゃ……っ」
「………リエナ」

徐々に彼を掴んでいた両手は離れそうになる。
ジャックは静かに呟きリエナを見上げた。

「どうして?」

そして、手は離れて行った。
彼女の時計が一緒に落ちた事すら、リエナには見えていなかった。

「……………」

冷たく静かな空間に、力なく座り込むリエナとレオ。
やがて馬車の音と共に、リチャードは混乱した様子で戻ってきた。

「レオ……」
「……犯人が目撃されたのか」
「……違うんだレオ……」
「……」
「通りで、殺人が。15分前に……」
「次は誰だい?」
「……………、メアリーだ」

「メアリーが、殺された」



「誤射……という事ですか」
「あんな霧の状態の中、ましてや自分の子供が助けを叫んでいたんだ。撃たない親はいないよ」
「………」

暫く暖炉の炎の音だけがパチパチと聞こえてきた。

「……あの後、不思議な事に殺人は起きなくなった。彼女が最後だった。
 そして、事件自体も証拠がそろわず捜査は打ち切りとなった」
「………」
「父さんの証言もあって、レオは全くお咎めを受けなかったが、
 それが逆に彼を苦しめてしまったみたいで、彼は自分から左遷を望んだ。
 そしてここにやってきた。これが、10年前の事件のあらましだよ」
「………」

10年間の事件と聞いて、何故3人が不穏な表情になったのか、
何故アーサーの証言でリエナが震えていたのか、その真相が全てわかった。
クローヴェルはそっと目を伏せる。

「つまりリエナさんは…その少年が復讐をしに帰って来たと」
「………クローヴェル君は、許しあえる日がくると思うかい?」
「え?」

ロズベルトは暖炉の炎にまた視線を戻しながら、呟くように言った。

「人間は皆生まれながらにして加害者であり被害者だ。今回の件は、レベルを大きく超えているけれどね。犯した罪が消えることは無い」
「ロズベルトさん……」
「…でもいつか、皆が全てを許しあえる時が来ると、償える時が来ると、そう思えるかい?」
「……それは…とても、難しい問題です」
「奇遇だね、私もかれこれ10年君と同じ考えのまま成長できていないよ」

珍しく冗談越しに笑ったロズベルトを見て、クローヴェルは少しホッとした。



「理~恵奈」
「……お父さん」

同じ頃、リエナの部屋にはレオが訪れていた。

「もうこんな時間なのに、まだ寝ていないのかい?」
「寝ていないと思ったからわざわざ来たんでしょ?」

ベッドに腰掛けて何かを見ていたリエナ。それは一枚の写真だった。

「……また教会にいた頃の写真を?」
「うん……」

その写真に写っていたのは、彼女がまだ幼い頃。ちょうど10年前に撮った写真だった。
微笑む彼女の隣には、ジュード神父やジャックも映っている。

「あの時から……私は変わろうとした」

ぽつりと彼女は写真を見つめたまま呟いた。

「周りの人たちからの偏見を取り除こうとして、新聞記者になった。
 どんな小さなスペースでもいい、誰か一人でも、子供たちの現状を知ってほしかった。
 それでも強く生きている子供たちの強さを知ってほしかった」
「理恵奈……」
「あの冬、川に落ちた冷たさを少しでも忘れないように、格好も変えずに今まで来た」

レオは、ゆっくりと彼女の隣に腰掛ける。

「でも何も変わってなかったのね。社会だって私だって……二人は私の事、許してなんてくれないわ、っ……」

堪えきれずレオの胸に寄りかかって静かに泣くリエナ。
レオはそんな彼女を片手で抱きよせた。

「そんな事ない、理恵奈。そんな事ない」
「嘘っ、私の、ただの独りよがり、だったのよっ……あの時、
 素直にジュードさんの言葉を聞いていれば、お父さんのいう事、聞いていれば、」
「お父さんが悪かったんだよ。君に寂しい思いをさせて、犯人を捕まえる事だけに
 必死だった自分が悪かったんだ、結局お母さんを殺してしまったのだから」
「お父さ、悪くな、もん……私がっ、私が、」
「大丈夫だよ理恵奈、何も変わっていないのは私も同じだ」

彼女の頭をなでながら、レオは一度瞳を閉じ、そして次には堅い信念を帯びた瞳になって再び開いた。

「だからこそ、私は動かなければ。もう逃げてはいけないんだ」
「え…?」
「今度こそ子供たちを全員助けてあげないと、二人に呪い殺されるって事だよ」
「お父さ……」
「明日はここで待っていてくれるかい理恵奈。すぐに戻ってくるから」
「……今度は本当?」
「うん」
「……わかった」

レオは微笑みながらもう一度リエナの頭をなで、額にキスを落とした。

「君も今度こそ、しっかり留守番しているんだぞ。私にとって理恵奈が最後の宝だからね」
「わ、わかったからもう止めてっ……」

すっかり泣き止んだリエナは耳まで赤くなりながら、素早く布団の中に入った。
レオは立ち上がって、ドアを開く。

「おやすみなさい……お父さん」

彼はドアをゆっくり閉めながら最後に振り返った。

「おやすみ、理恵奈」




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